堅いご飯
PITさんのお話
青森の方で、リンゴの収穫時梯子から落ちた方がいらっしゃいまし
た。
年輩の女性だったこともあり心停止してから蘇生できず帰らぬ人と
なったと思ったのですが、お葬式の時、突然目を覚まされまして、読
経していたお坊さんも腰が抜けて立てなかったっていう話ですが。
実は、家の菩提寺の住職がこの腰が抜けたお坊さんの同期(って言
うのでしょうか一緒に修行した方だったそうです)だったので、法事
の時に家の家族に話した話だそうです。
まず、気が付いた時?お花畑だったそうです。そこからしばらく歩
くと道が曲がって川に着いたそうです、そこで何年か前亡くなったご
近所の雑貨やさんのおばあさんが川で何か洗っているそうです。
何を洗っているのか聞くと、家の嫁は何日もお供えのご飯を供えて
おくので堅くて食べられないから、洗って柔らかくしているんだと、
こぼします。あれま、今度会ったら言っておいてあげるよと約束をす
ると、そのおばあさんが立ち上がり川の向こうに歩き始めます。
誰も知り合いのいない心細さで付いていくと、あんたは付いてきち
ゃいけないよと言われます。それでも付いていくと、突き飛ばされて
気が付くと、目の前に前出のお坊さんが腰を抜かしていたそうです。
それからしばらくして回復すると、早速ご近所の雑貨屋さんに赴き
実は、あんたのお義母さんがこんな事言ってたけど、ちょっと仏壇を
見せておくれと。事の次第を説明すると、確かに店が忙しかった事も
あり、お供えの堅く干からびたご飯がそこにあったそうです。
このお嫁さんは、忙しくてもお仏壇は大事にすると約束してくれた
そうです。
いわゆる、臨死体験と言うことになります。
色々な意見もあるとは思います。頭から否定しようと思えば、ご近
所だから、何かの拍子に見たこの家の仏壇が印象に残っていた為こん
なモノを見たのだとも言えます。
元々信心深い性格だったので、疎かにされている仏壇などみると我
慢が出来ない性格でつい状況を利用したともいえます。
心停止から脳死の確認までちゃんとやったのか等々の意見もあるで
しょう。
ですが、それがそれ程大切な事でしょうか?
私も、人並みに「死」には興味があります。
「別れ」に対する憤りや「苦痛」に対する恐怖「達成感」の無い空
しさ、でも全てを白紙に戻せる安堵感・・・
実際体験した事でもないのに、色々な感情がその一文字に集まり、
自分の「死」より、判り易い他人の「死」に様々な想像がつきまとい
ます。「苦しかった?」「悲しかった?」「思い残した事は?」「今
どうしているの?」
生前の知り合いなどは、その生き方、感じ方、周囲の関係、死に至
るまでを知る立場になり、人によれば無念だっただろうとか、残念だ
っただろうとか、辛かっただろうとか・・・
お盆になると、彼らは帰ってきます。そしてこの時期は怪談が流行
ります。
怪談の主人公は大体、死ぬ間際不幸な人達です。
恨みでドロドロしています、実際それは有った事でしょうし、何か
の錯覚だった事も少なくはないでしょう。
でも、怪談の主人公にならない様な人生を考えるのも大切な事なの
ではないでしょうか?