【怖い話:畏怖を忘れた者】

 大阪市阿倍野区は松崎町に小さな遺跡が残っている。土地勘のある人やこの辺りで不動産関係の仕事をした方なら、
ご存知のことだと思う。安倍寺。つまり古代安倍氏の氏寺の禊ぎ場だけが、乱開発や地上げ、古くは戦乱を通して未だ残って
いるのだ。小さな路地の三角の猫の額ほどの敷地にそれは残っている。この辺りの土地はいい加減な縄張り測量で、古くから
所有地が残っている。公の土地開発が何度か入ろうとしたが、この井戸のような禊ぎ場を潰すことを、住民は真顔で怯えて、共有地化している井戸の土地売買に印鑑を押さない。路地の奥には大正時代から人が住まない小粋な和風の家屋がある。
元花魁であった婦人が住まい、琴を教えていたらしいが、何時からか行方不明になっている。その縁戚に当たる人は日本中に散っているが、それらの縁戚の方は、この家の話をするだけで、眉をしかめて、売買契約に印を押さなかったので、今も無人で残っている。誰も手入れもしていないのに、古びて朽ちたりしない。この家の所有者がはっきりしないため、付近の住民は家を建て替えたくても私有地全ての所有者の印鑑を揃えることが出来ないため、改築・増築しか出来ない。
 この路地は昼でも暗く、路地奥の幽霊屋敷からは、ピンと背筋の伸びた洒落た和服の老婆が目撃されている。別の話でも書いたが、台風の夜、投げ捨てられていた空き缶が音を立てた瞬間一列に並んで、近隣の住民を恐れさせた。
 だが、羽田空港の鳥居ですら打ち壊した時代の流れが、こんな一等地を捨てておく筈もない。松崎町を基盤に大きく成長した企業が松崎町の買い占めに走った。まず、最初に犯した禁忌。それは、松崎町と阿部野橋の境に立つ松のご神木を切ることだった。いつ頃からあったのか? 詳しく知る者はいない。ただ、戦災にも焼けずに残った親睦は近辺の信仰を集めていた。地元の業者は恐れて手を出さぬので、背に入れ墨を背負った屈強な男を集めた。切る日は事前に周囲の住民に周知された。
 私はこの地を担当する営業だった。私も威厳のあるこのご神木にいつも手を合わせていた。不思議なことに、このご神木に巣くっていた白蛇は姿を消していた。その当日、私はお別れをするために現場へ行った。大勢の老人達が集まっていた。
「こんなことしちゃ、ただですまんげに……」
 近くのたばこ屋の老爺が憎々しげに呟いた。
 ―――悲しいな。
 そう思って私はご神木を見上げた。目の錯覚か? その神木は両手を胸の前で合わせて水に飛び込む女神に見えた。
 それで、「あかん。これは本当に切られる」と思った。
 神主も用意せず、男達は何の儀礼もなく、時間になるとチェーンソーを回した。その横柄な態度に怒りを覚えたのは私だけではないはずだ。私は倒木の瞬間を見られなかった。あまりにも痛々しかったのだ。心の底で微かに神罰を願っていたが、神は蹂躙されるままだった。
 それからすぐに、件の幽霊屋敷が取り壊される予定だったが、取り壊しの日が通知されたのは半年後だった。誰もが祟りがあったと思ったが、口にする人は皆無だった。彼らは地上げ屋を恐れたのではない。口にすることで自分が神罰を受ける気がしていたのだ。
 件の幽霊屋敷は細い路地の奥にある。パワーシャベルはおろか、軽乗用車も入れない。どこから集めたのか江戸時代の火消しが持つような道具を持った男達が集まった。悪いが、この幽霊屋敷は人々の信仰を集めていたものではない。畏怖の対象であり、それが取り壊されるなら、近辺の住民は安堵の息をつける。自ら関わるのは怖いが、地上げ屋がしてくれるなら、それに越したことはなかった。私は外勤を口実に又、見物に行った。細い路地と言うこともあるが、近所の住民の一握りが、おそるおそる覗く程度だった。見ることで災禍を被るのを恐れる人が多かったのだろう。
 が、今回は様相が違った。まず神主がいる。その神主も緊張に顔から血の気が失せていた。昔の火消しが持つような道具を持った男達も尋常でない顔色をしていた。恐らくはこういう僻地の家を取り壊すプロなのだろう。彼らは家を壊すと言う行為の意味を知っている。そして今回は家の庭に地上げを命じた企業の社長と、その幹部が小さな庭に張られたテントの中で背広姿で座っていた。やはり、何か起きたのだと確信がもてた。社長だけが憮然とした顔で座っている。
 神主は榊を水に浸すと、なんとその社長連中に水を降りかけ深々とお辞儀をする。
(これは面白い)
 そう思った。お飾りの神主ではない。何を清めるか分かっているのだ。神主は榊を水に浸すと幽霊屋敷に向かって榊を振り、目で職人達に合図をする。素早い仕草で職人達は、家にはしごをかけ、するすると登ると家の上からお札を貼っていく。神主が、絞り出すような音量で祝詞を唱える。
 初めは錯覚と思った。だが、神主と職人達は蒼白になった。
 無人の屋敷の奥から琴の音が聞こえるのだ。曲を奏でているのではない。神主の祝詞に合わせて狂気を帯びた音をはじき出す。神主はさらに大音声で祝詞を唱える。琴の音はつんざくような高さで響き渡り家そのものが震えるような勢いで鳴り続ける。社長連中も流石に顔色を無くしている。突然神主は榊を家の玄関に叩き付けた。側に置いてあった粗塩の袋を取ると、奇声を上げて家の回りを怪鳥のように駆けて、「バク! バク! バク!」と叫んで粗塩を家に振りかけながら、職人達に「札! 札!」と叫ぶ。
(―――へぇ? 陰陽道もやるかね?)
 こんな面白い見せ物は久々だ。悪いが私は楽しみながら眺めた。路地を埋めていた住人は、琴の音が聞こえた時点で、三分の一に減っている。脱兎のように逃げたのだ。塩と陰陽道の術が効を成した。琴の音は消えた。その時は家全体を白い和紙のお札が張り終わっていた。社長連中が安堵の色を見せる。神主は元の位置に戻り、上がった息で祝詞を唱える。誰もが、これで取り壊しが出来ると思っただろう。
(させるかよ。すますかよ)
 そう思っていた私は口の中でくぐもり響く真言を唱えた。禁呪である。
「かかって下さい!」
 神主は叫んだ。その瞬間、ボンと家全体が膨らむ音を立てた。張ったお札全て飛び落ちた。「あれや!!」神主は意味不明の奇声を上げてその場から脱兎の勢いで逃げ出した。続いて職人連中、そして腰が抜けた社長を抱えて背広組が逃げていった。無人になった家の敷地に私は入った。高笑いしそうだったが、なんとか抑えた。落ちたお札を拾う。和紙に何かの脂を混ぜたらしい、お札は効力のある物だったが、いかんせん、ここは古代からの霊場だ。磁場が違う。人の付け焼け刃で太刀打ち出来るものではなかったのだ。私は、立ち上がり幽霊屋敷を見上げた。閉じた雨戸の二階の部屋で、雨戸を透かして老婦人が笑う姿が見えた気がした。
(あれは、もう人じゃない)
 そう思った。私はライオンズクラブの会長でもある社長の名を口に小さく呟いた。
(只では済まぬわな)
 果たして社長はそれから僅か三ヶ月で他界した。癌とされたが、何でも内蔵が腐り落ちる奇病であったらしい。
 その屋敷は二十年以上経った今も健在である。無論、禊ぎ場も健在である。

 たかだか古代の禊ぎ場とリンクした霊場でもこうなる。
 この国の要となる霊場が、今また犯されている。神は甘くない。祟るのだ。それを忘れた時、この国は災厄に包まれる。

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