【怖い話】味覚
朝子さんからの投稿。
世間一般とは、違う趣旨の怖さの話かなと思います。
私は事実にたどりついて意味を理解したときに、久々に背筋がぞくぞくしました。
お寺へ月に一度のお礼参りの後、僧侶の方と他の信者の方たちと談笑をしていました。
他の信者さんの娘さんが仕事先の合宿から帰ってきて、娘さんも来ていました。
「やっぱり家のご飯が美味しい」
「お袋の味は大事だよね、忘れられないよね」
このような会話がある中、私は何か違和感を感じました。
家の味と言われると思い出すのは、
卵と砂糖たっぷりのドーナツ
マドレーヌ
牛乳ようかん
それにお誕生日会で作ってくれた鶏の唐あげにサンドイッチ
ハレの日のメニューや子どもが喜ぶ系統に偏っているみたいでした。
それ以外の料理もいろいろと食べているのですが、なぜかあまり記憶に残っていないこと
に気付きました。
私の両親は共働きで、家事は母が担っていました。
母が体調が悪くて寝込んでも、父は世話をするという考えはなく、暇があれば好きな釣り
に出かけてました。
父は家庭を持つには感性が幼かったのでしょう。お金は入れる以外に家庭は放置していま
した。
やがて母は仕事の過労や家庭を省みない父に疲れていき、うつ病で拒食症になり瀕死状態
で寝たきりになりました。
成人して働きながら一人暮らしをしていた私は事情で仕事をやめて、実家に戻った時がち
ょうど母の寝たきりになっていた時期と同じでした。
「困ったよ、何も食べないし、風呂ももう3ヶ月は入らないし。なんとかしてくれよ」
父が説明しながら母のところへ私を連れていきました。
真夏なのに雨戸を締め切り、サウナのような熱さがこもった真っ暗の部屋で私が目にした
ものは、
目だけはギョロギョロと動き、体から異臭を放ち、骨と皮のだけの餓鬼によく似た姿に成
り果てた母でした。
母は複雑な家庭に育っており、愛に飢えていたけれど、母を支えるほど父は大人ではなか
った。
そして私は幼い頃にあるトラブルに巻き込まれたことがありましたが、家庭の和が壊れる
のを恐れた母は私に口止めをして放置したことがあります。
私と母の仲も冷えきっていました。
それから私は介護に入り、少しずつですが、母は回復していきました。ですが心身ともに
病んだ為か体調を崩すことが多く、二度と働くことはありませんでした。
母が元気になると実家の陰惨さがつくづく嫌になり、私は仕事を見つけて早々に出ました。
あれから約15年経ちますが、母は足腰が弱って家事は出来なく、私は母の料理を食べる
機会がなくなりました。
母の介護で一番困ったのは食事でした。
「私の味じゃない、普通は母の味を作るのに。可愛くない」
文句を言って少ししか食べない日が続き、困り果てました。料理は母に習おうとしました
が、私と作ると時間がかかるから嫌だと言われ拒まれてました。
だから私の料理は本から学んだ味なので、母の味とは違うんだと、つい最近まで思ってい
ました。
でもお袋の味について自分にその記憶がほとんどないことに今更ながら気付きました。
ですが、ふっとある結論に至りました。
多分、母は結婚生活が理想通りに後れないことに失望していた。
だけど母の両親みたいに離婚はしたくない。
もはや意地で家庭を支えていた。
料理は作るけど、仕方ないからやるだけ。
母の料理は、隠し味に失望がスパイスとして知らずに入っていた。
それをなぜか私は無意識に鋭敏に舌で感じ取っていて、これまた無意識に失望の味つけを
拒否していた。
だから私の舌は、憎しみを込めた母の味の思い出がないのだと。
唯一、覚えているのは、まだ私が幼い頃に母と一緒に作った卵と砂糖がたっぷり入ったド
ーナツや、一度だけ作ってくれたマドレーヌ。
また誕生日会の鶏の唐あげやサンドイッチ。
そして私が作った物で一度だけ誉めてくれた牛乳ようかん。
これらあげると、笑っている母しか思い出せません。
母自身も楽しくお菓子などを作ったんだろうなあと感じ、そのようなときに出来た物は物
凄く美味しかったという記憶があります。
楽しかった時の物しか味を覚えていないというのも、これはこれで幸せかもと思いました。
※心霊的な話じゃないじゃないか! と憤る方もおられるかもしれないが、私は人の業を
描いた「怖い話」と判断して採用した。
※辛い話である。読んでいて涙が出る。朝子さんは良くこの話が書けたと思う。
※失礼な言い方だが、人が生きながら餓鬼道に落ちる怖い話だ。余程の宗教体験がないと
御母様の成仏は望めない。
※私も家庭的に恵まれていないので、この話は他人事とは思えない。
※このような業は誰でも抱えてしまう可能性があるので怖いと思う。
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