東京にミッチーさんと言う親友がいる。
関西の聖地に興味を持たれていて、東京からやって来られる。私にとっては菩薩とも思える方である。
同じアンテナを持ち、座禅への理解も同じだ。仕事の内容も私にも経験のあるものである。
彼に見捨てられたら、私はそれこそ畜生道に墜ちることだろう。
そのミッチーさんから、11月24日に金峰山に行きませんか? とお誘いがあった。
私が経済的に困窮しているのは良くご存知なので、旅費は勿論、食費までご負担頂けると言うお誘いだ。
こんなこと言ってくれるのは、友人の域を超えて、神仏の類いではないかと思う。
この恩は倍にして返さないといけないと心に刻みながら、喜んで申し出を受けた。恥知らずのそしりを受けるのも覚悟で受けた。
金峰山は役行者が開いた霊場で、春は桜で全山が埋まる観光の名所として、関西では有名だが、標高も高く、道も狭い。故に電車とケーブルで行く事になる。
大阪は天王寺にある近鉄阿部野橋駅から吉野口までの特急電車に乗り、吉野口から昭和3年建造のケーブルカーで下千本吉野駅に着く。
会話が弾んだので、乗車の時間は分からない。
昭和3年建造から、ろくに補修も無しに運行しているケーブルカーを使っているだけあって、下千本吉野駅の駅周辺は昭和レトロの空気が満ちていた。建ち並ぶ宿も古くさい。
ミッチーさんが調べてみたところ、宿泊費は途方も無く高いそうだ。それだけ客が少ないのだろう。
実は危惧していたのだ。
世界遺産に指定された霊地が清浄さを失い、魔境と成り果てた姿を幾つも見てきた。
今日も休日なのに人はまばらだ。霊地が霊地として守られている。と言うか、請によって集まる山伏と信仰の強い一般人の僅かな巡礼で、漸く生き長らえていると見た。
駅の広場から真っ直ぐ坂道の参道が仁王門まで続いている。この参道は目測で傾斜10度を上回る。今の私の体力には厳しいかと思われた。
私がベンチで一服しながら、荷物からカメラなどを出している間、ミッチーさんは地図の看板や、なにやら確認していたが、戻って来る時には両手に串刺しの鮎の塩焼きを持っ
て来ていた。来た方向を見るといかにも地元民という壮年の男性が二人、ドラム缶で焼いている。商売で焼いている様には見えないので、ミッチーさんに「おいくらでした?」と尋
ねると「一本、600円でした」とニコニコ顔で答える。
(―――無料じゃないのかよ)
と失礼な思いを抱きながら、しゃぶりつく。朝の取れたてを炭火で焼いたものの様で、粗塩も自然の良い物だった。
旨さも絶品で、頭もバリバリと食えた。
名物の葛餅も頂きたかったが、こちらからせびるような真似も出来ない。
さて、仁王門に至るには、幾つか山門を潜るのだが、最初の山門が左の写真である。 左の屋根の裏に何か写って居るように感じるが、それはさておき、重厚で年期の入った山門である。 『汝、この門を潜る者、全ての望みを捨てよ』と言われている気がする。 近畿圏の高山の霊気は厳しく、鋭く切り立っているものだが、吉野は違う。 一言で吉野と言っても、その範囲は広い。 東吉野、吉野、西吉野と大きく区切られ、どこも役行者か神武天皇の影響が見られ、奥深く得体の知れない妖気の様なものがある。 役行者は真の意味で日本に仏教を導入した人物で、その能力は凄まじい。 役行者は、ここ金峰山でこれからの日本を治めるに辺り、守護神の召喚を行った。 最初に召喚されたのは弁財天であったと記憶するが、役行者は「甘い!」と一蹴して、天河の守りを命じたと古事にある。 |
天河は自然に構築された蓮の地形をしており、美しい水に恵まれた聖地で、金峰山と比較にならぬ程の観光客が訪れる。
だが、遊泳禁止の川には対岸に、正五角形で岩で何者かを封じている。剣呑なのだ。
大阪市立美術館で天河神社の宝物の展示があった。
秘本とされていた「天河神社曼荼羅」が公開されると聞き、初日に観に行った。
曼荼羅図を見て息を飲んだ。弁財天は祟神ともされているが、そんな甘い物ではなかった。
これは弁財天ではない。
少なくとも我々の知る弁財天ではなかった。こんな者を召喚し、天河の守りにつけた役行者は空海を上回る霊能者で鬼神の様なバケモノだと思った記憶がある。
ちなみに、こちらから仁王門、蔵王堂と抜けて通る道は金峰山の構造をみれば、これは裏口であり、一般信者の為のものだと知れる。
修行者は全く反対方向の西側で一日を終えるものと想像出来る。かなり足腰に来る地形である。
私とミッチーさんが参道を進み始めると、今、着いたケーブルカーで小学生の愛らしい孫を連れた老人が広場に出て来た。
老人の顔を見て、(あ! この人実践の修行してきた人だ)と思った。
足の膝に力を入れて、登っていると『銅の鳥居』に着く。
なぜか、参道から外れ、左の空き地に建っている。
すでに息が上がっていた私は、参道から一段上がった『銅の門』の敷地に腰を下ろして休んだ。ミッチーさんには申し訳ないばかりだ。
ケーブル駅の広場にいた老人と女の子の小学生が抜いて行く。二人とも笑顔で坂道を苦としていない。
(小学校の低学年女子ほどの体力もないのか。オレは……)
そう思って落ち込む。
まぁ、仁王門は屋根が見えている。そんなに歩かずに済みそうだ。
鳥居と言うのは潜らないとヤバイ。神の許可を受けずに神域へ入る様なものだ。
ミッチーさんが、銅の鳥居の敷地の左にある。ホテルを指さして苦笑している。
すでに廃業してかなりの月日が経っているようだ。廃墟マニアには垂涎の物件だろう。こんな鳥居の横に建てるから潰れたんじゃないかと思う。
鳥居と言うのは意味があり、領域を持つ。
このホテルの建立者は地元民ではあるまいと思った。
蛇足になるが、鳥居の正式な通り方は二本のはしらを8の字に回り中へ入る。私は古式な神社では、この参り方をする。
さらなる蛇足、帰宅して金峰山のパンフレットを読んだ所、『銅の鳥居』は俗世を離れ、仏門の世界へ入る意味を持つそうだ。発菩提心(オン ボウジシッタ ボダハマミ)、それを促す心の準備をする場所だったのだ。だから、
一旦、参道からずらしたのだ。潜っておいて良かったとつくづく思った。
そうこうする内に漸く仁王門の全貌が見えました。なんと改修中で、仁王様がおられません。
参道は狭い様に思われるでしょうが、金峰山近辺では最も緩やかで広い道です。
仁王門は石段を登るのですが、結構な高さで、石段そのものが一段一段が高いのです。
大股開いて登ることになるのですが、これでは着物の老人に酷です。着物姿の娘などは恥じ入って登れなかったでしょう。昔は女人結界だったのかもしれません。
蔵王堂を中心に修行場は全て金峰山と言い女人禁制でしたが、某女性団体が差別だと強硬突破したことがありました。区別であって差別ではないのに……
さて、右側に写っている黄色い平屋に注目頂きたい。写真では分からないが、まだ数年しか経っていない新築家屋である。土蔵造りと言うお金と時間の掛かる建築様式だが、鉄筋コンクリートよりも丈夫で長持ちする上に、地震火災にも他の建築様式を上回る耐久力を持つ。1ヘーベ単価の工事料は50万を上回る。
屋根の上に屋根の様な物がせり上がっているが、これを『うだつ』と言う。特筆すべき機能は無い。
『うだつが上がる』と今も言い回されているが、要はお金持ちになった印で屋号を持つ商家はその紋を家に刻む。
この家の駐車場に止められていたバイクのナンバーが666であったのが、気に掛かる所です。自分で希望したのかな?
(閑話休題)
さて仁王様がいない仁王門ですが、「いなくても圧がありますね」とミッチーさんが言います。確かに空の空間に何者かの存在感があります。
仁王門を潜ると若い巫女さんが待ち構えていて、蔵王堂へと案内されると同時に下足入れを渡されます。入場料は300円だったかな?
蔵王権現は仏教の経典には記されていない縁の行者が最後に呼び出した憤怒仏です。
蔵王堂の空中に吊された蔵王権現はその眼力が隅々に満ちているようにかんじられますが、以前、蔵王権現が金峰山開山以来初めて、各美術館を巡ったことがあります。私も天王寺美術館で拝ませて頂きましたが、ワンホールまるまるを占める威圧感と荒々しい気迫がありました。
蔵王堂ではその荒々しさが鎮まっているように感じました。
蔵王堂は撮影禁止なので、ググってHITした画像を掲載しておきます。
暗がりから、外に出ると朝は曇っていた空がピーカンに晴れている ? 訂正。雲が一つ震央にある。 金龍の子供に見えるのだけど、皆様はどう思います? |